『愚者のエンドロール』米澤穂信|あらすじ、感想-脚本家が書けなくなった未完成のミステリー映画の結末は?

2002年刊行
米澤穂信よねざわほのぶ先生の作品
古典部こてんぶシリーズの第2作目です

シリーズ1作目『氷菓ひょうか』のあらすじ、感想記事はこちら⇩

 この小説は、
 文化祭のために制作されたが、脚本家が倒れたせいで解決編がないミステリー映画の試写会にお呼ばれした古典部の面々が、撮影済みの出題編から結末を見つけ出す話になっています。

 映画もミステリーも素人の高校生が撮影した映画。この映画の出題編と制作陣の話から、本当に結末を見つけ出すことができるのか。
 わたし、気になります。

書誌情報

  著者 : 米澤穂信よねざわほのぶ
タイトル : 愚者ぐしゃのエンドロール
シリーズ : 古典部こてんぶシリーズ#2
 出版社 : KADOKAWA
レーベル : 角川文庫
  判型 : 文庫判
ページ数 : 256ページ(文庫)
 発行日 : 文庫 2002 / 7 / 31
     愛蔵版 2023 / 3 / 2(氷菓と合本)

前作 古典部シリーズ#1 「氷菓」のあらすじ、感想記事⇩

愛蔵版にのみ収録の短編小説 「プールサイドにて」あらすじ、感想記事⇩

あらすじ

 

 2年F組が文化祭のために制作した映画の試写会にお呼ばれした古典部の面々。
 だが、その映画は登場人物の一人が密室で殺されているところで終わっていた。
 招待者によると、脚本家が精神的に病み、未完のままで撮影が止まっているという。
 例のごとく好奇心を爆発させた千反田ちたんだえるに促され、折木奉太郎おれきほうたろうは映画の結末を探すことになる。

 

感想

アントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』のように探偵役が入れ替わり、次々と映画の結末の推理がされる展開は面白かった。それらから導き出した折木の結末もいい。

 また、シリーズ前作の『氷菓』と同様に細かく伏線が散りばめられており、それらを綺麗に回収してくれる。

 だが、この小説の副題である『Why didn’t she ask EBA ?』、日本語訳『何故、江波えばに頼まなかったのか?』 この疑問が読んでる最中、頭から離れない。が、古典部の面々は特に疑問に思わずに話は進んでいく。この登場人物との感覚のずれが気持ち悪くて、作品にのめり込みづらかった。

 だからつまらない。というわけではなく、ラストに二転三転する物語の構成が凄くよくて、めちゃくちゃ面白かった。

 最後にタイトル『愚者のエンドロール』の意味について自分の考えを書きたいと思います。

 ネタバレになってしまうので、商品リンクの下に書きます。

タイトル『愚者のエンドロール』の意味の考察

 このタイトルには二つの意味があると思います。

 一つは「愚者」に千反田えるを当てはめた場合。

 作中で、古典部員をタロットに当てはめた際に、「愚者」を当てはめられたのは千反田でした。なので、タイトルの「愚者」を千反田のことだと考えるのは必然でしょう。

 そうやって考えると、「愚者のエンドロール」とは、

千反田のエンドロール = 千反田が望む結末 = 本郷ほんごうが考えた結末

 となることが考えられます。

 つまり、折木が「探偵役」として考えた結末は間違っている、と言うことをタイトルで示唆しているのだと思います。

 もう一つは折木を「愚者」に当てはめた場合。

 折木が作中で当てはめられたタロットは「力」であって「愚者」ではない。

 しかし、作中で書かれた「愚者」のタロットへの解釈は、

 冒険心、好奇心、行動への衝動、の三つ。

 どれも千反田にあっており、折木とはかけ離れているように思えます。が、

 今回、入須いりすに乗せられた折木は、自分にしか出来ないこと、「探偵役」引き受けます。

 これは紛れもなく「愚者」の解釈の一つである「行動への衝動」です。

 なので、「愚者」に折木を当てはめることが出来ます。

 そして、折木がやらされたのは「探偵役」ではなく「脚本家」でした。

 「脚本家」は当然エンドロールに載べき人物。

 つまり、折木が「探偵役」ではなく「脚本家」として踊らされているのを暗示しているのだと思いました。

 

 あくまでもぼく個人の見解です。作者の意図とは全く違う場合もありますので真に受けないで下さい。

漫画版もあります⇩

このブログの米澤穂信先生作品の記事⇩

図書委員シリーズ#1 「本と鍵の季節」

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